ワードプレス準備中の移行期。書くべきか待つべきか。「待つ」方を優先しているものの、どういうわけか上手い具合に時間が空く。今日noteを始めた最初に書いていた「愛」テーマについて。
目次
■愛・ラブあってのD&S

ドミナントにしてもサブミッシブにしても「自分の性質」のこと、「性に関すること」は持論があるようで、noteでもTwitterでもそうした文章をよく見かけるように思う。
でもほとんどの人がもっと根もとにある愛のことについて書いていない・・・・というより、考えを持っていないんじゃないか?と疑問に思うことがある。
愛が何でどんなものか。
人それぞれがそれぞれの答えを持っていてもいいと思う。だけど、その答えに至るのはそんなに短い道ではないと思うし、いろいろ考えて、悩んで、経験して、調べて、ラブストーリーを見たりもう少し大きな愛の物語に触れて、涙したり憤ったり、というようなプロセスを経て見つけるものだと思う。「見つかる」ではなく「見つける」。
このブログで愛のことは「一致すること」を軸にして書いてきた。
でもどうして愛が「一致することなのか」というもうひとつ奥のことには触れてこなかった。
今日はそのあたりのことを書いてみようと思う。
■もっと本質的に「愛」って何?

もちろんこれは僕個人の考え方だし、他にも答えがあると思う。
ただ、実のところ、自分なりの答えを出すのにゆうに20年以上はかけていて、その間になかなかの追求とか思索はしてきた。
以前に書いたことだけど「一致」はもう少し正確にいうと「溶け合う」が正しい。融合と言ってもいいと思う。溶け合うことを目指す、でも事実そうはならない。だからいつまでも溶け合おうとむずむずするし、少なくとも一致だけはしようとする。
歳を取ったり、夫婦として長年連れ添うと、以前ほど積極的に一致しようとか溶け合おうとしなくなる。なぜか。諦めるからだ。
そもそも溶け合うことはできない。ちょっと考えればすぐにわかる。
できないことをいつまでも求めるのはなにかおかしい気がする。
一致できる範囲ではもう結構一致しまくった。SEXもたくさんした。何度も中に入った。何度も中に入る意欲、つまり性欲も衰えてきた。
そんな努力や行為をしなくても、もうほぼ死ぬまで一緒にいることは確定だし安心材料でもある。
ならもうガツガツ求める必要はない・・・・というような理解がある。
これも書いたことだけど、だから愛を深めることをしなくなる。
もう一致しているから別にいい、としている。
愛を深めるということは、もっと一致する、まだ溶け合う可能性があるんじゃないか?にトライすること。
この、
一致とか溶け合う、くっつく、近寄るっていうのは愛と呼ばれる全ての物事に共通していることなんだけど、なぜ共通していて、どうしてそれを求めるのか、ということを若い頃からずっと考えていた。
■くっつく力

いろいろな分野を知ったり経験したり、勉強したりしたけど、自分なりに行き着いた一定の答えは科学分野にあった。
ちょっと理屈っぽくなる。
「力」はこの世界に4つしかなくて、ものすごく省略して本質的には間違っていることを書くけども、そのうちの2つはくっつく力と離す力になる。
人間も自然物だから物理的な力学に従っている。
くっつくことで物が作られる。原子が分子になる。分子が集まることで、ただの集まっただけの「物」ではないもっと複雑な命や生命活動のようなものが作られる。
くっつくための力をここでは引力として、離れる力を斥力とする。
人が人の活動をする中でくっつこうとする力があって、その力の総称を「愛」と呼ぶことができる。だから「今日ちょっと飲みに行かない?」と軽く人を誘うのも広い意味では愛だといえる。
支配したい人と支配されたい人がくっつきやすいように、愛には何かのくっつきやすい要素がある。
たとえば会社は給料を払う代わりに労働力を提供してもらう相互の関係になっている。そういう「しくみ」によって人が集まりませんか?と集合をかけていて、集まった人にはコミュニケーションや仕事上の連携、チームワークとか、縦割りの仕事の順番などなどの「何かによってくっつく動作」が生まれる。だから会社が人材募集するだけで、これも広い意味で愛を促進させている。お客さんに商品を見せて買ってもらうこともくっつく力になる。
でも、仲が良くない人、避けたい人もいるし、そんな商品興味ないからいらない、ということもある。愛にならない。
くっつく力には強い弱いがあって、強いものが大きな愛になるし、弱いものが小さな愛になる。
くっつくために必要なものが「引力」になる。
■人間同士がくっつくために

「感情」と呼ばれるものには本当にいろいろな種類があるけども、単純化すればどの感情も「良い」「悪い」の2つに分けられる。
良い感情が働くと人はくっつこうとする。悪い感情が働くと離れようとする。
これも説明すると長くなるのですごく短く言うと、感情は心そのものではなく外部反応の判別器官(レセプターという)の発展したもので、瞬時にくっつく離れるの判断をする。
瞬時にするので誤動作も多くて、よく間違った答えを出すことがわかっている。
でも多くの人は感情に流されるし、感情こそが大事なものだと思っているから、良い感情を得るために、別の良い感情を得たい人と一緒になろうとする。引力が働く。
でも感情でくっつくので、感情が変われば関係は変化するし、引力が弱くなったり斥力に変わってしまう。
その結果男女が別れたり、喧嘩が起こる。
相手と一致するかどうかを決めるのは感情(だけ)ではない。
たとえばSの人にはMの人が合う。S同士でくっつき合うのは(男女や恋愛ベースでは)難しい。これは感情ではなくて性質。性質の一致の方が感情の一致よりも引力が強い。
だから既に書いたことだけど「好きな気持ちは結局のところ自己中心的で弱い」のは、相手と自分の性質が一致するかどうかではなく、感情に主観を加えた気持ちでしか判断していないから。その証拠に「あんなに好きだったのに今では全然そう思わない」という経験は誰にでもある。
性質が一致したから一緒になったけど、だんだん一致しなくなったということもある。
成長したり変化するので何かが合わなくなることは誰にでもある。
■離れる力

強い引力があれば、弱い引力がある。
弱い引力(愛)だとくっつき続けられない。一致率は下がる一方になる。
ということは、強い斥力があれば、弱い斥力がある。離れる力。
愛を強く求めるというのは、強い引力、すごく一致しよう、絶対溶け合おうとする力が必要だけど、実は同時に強い斥力、キッパリと離れる力も必要になる。
どうしてかというと、
強い愛を求めるためには、そうではないある程度強い愛から離れる必要があるから。
愛が薄ければ簡単に離れられる。
でも、本当は自分が求める一致、溶け合うと目指すほどではないのに、結構かなり良い愛が手に入ったからそれでいいやとするとき、自分にとっての愛は「別にこれでいいや愛」になる。
弱いことが問題になるんじゃなく、ある程度強いことが問題になる。
歳を重ねたら、夫婦として長くなったらどうして一致をあまり求めなくなるのかの理由はここにある。
「いやうちはそんなことない」と信じている人で一番多いのは、それはお互いの愛ではなく、家族愛とか、別の愛にすり替えてしまって、「そういう(別の)重要なものを自分たちは育んでいるんだから愛はあるのだ」という言い訳。
それは愛ではある。でもお互いの愛ではない。男女のラブの愛の話をしているのに、別の愛があるからいいというのは話の筋が違う。
これまでに経験した程度の一致しかしていないのに、これ以上の一致を諦めているのに、別の愛があるからいいということにはならない。
■一致から離れると

最も強い一致から離れたとき人はどう思うかというと、恋しくてしょうがなくなる。早くまた一致したいと思う。
恋愛初期の若者の話ではない。愛の性質の話。
逆に一致しているときに離れたくなるかというと、基本的にはそうならない。一致の状態が良いとなる。
じゃあなぜ離れるのかというと、愛とは別の何かがあったり、別の愛の事情や理由があるから離れる。愛ばかりで生きているのではないから、生活の中で離れるのは当たり前のことだ。
だからもっと一致できるためにはどうしたらいいかと考えるわけだし、一緒にいる時間は濃密なSEXをしようと深めることをしたりする。
くっつくことも離れることも、どちらも誰にでも当たり前に起こっていることで、だから両方とも自分らしい形を十分以上に持っていれば充実した自分でいられる。
くっつく力は愛だけど、離れる力を人間的な行為でいうと「自由」になる。
自由は不自由でなくなることではない。どんな愛にもくっつくことが共通しているように、どんな自由にも離れることが共通している。
だから愛の反対語は自由だと言ってもいい。
愛だけが唯一絶対大事なものではなく、自由も同じくらい大事なんだというなら、溶け合うほどの愛を求めるということは、どこまでも駆け巡ることができる自由も「同時に」あっていい。
■愛に自由が必要なワケ

不自由な自分、不自由な生活で何年も生きているとすると、狭い世界に身を置いている事になる。
狭い世界ではイコール物事が少ない。なら選んだ相手以外の異性を知らないだとか、知る必要もない。その狭い愛でくっつしかない。
広い世界では物事が多い。知り合った人の数が男女問わず多いとしよう。コミュニケーションの数も多い。個性豊かなさまざまなタイプの人を知っている。そういうことを知っているのは離れる力が活躍したから。
そんな中では、自分はこんなタイプなんだとか、自分が好きになる人はこういう傾向があるとか、関係がうまくいくのはこんな人だということが広い目でわかるようになる。
本当のところ自分はどんな人で、別の誰と一緒になるといいのかがわかるようになる。
だからこそ、この人は一致しやすい、この人とは溶け合えるんじゃないかと、思い込み目線ではなく客観的に見る。
これが愛の一致を深めるために、自由が必要な1番の理由。愛のための自由。
狭い世界の狭い愛を唯一無二だとすることが深いとか一致しているのではない。
逆に広ければいい、たくさんと付き合えばいいということでもない。
愛も自由も自分らしさを出すことができて、その上一致を深められることが大事だってこと。
というような愛の定義、を、僕は持っている。
誰もがそう思わなくていい。僕だけが思っていていい。
ただ、誰しも自分なりの愛が何か、どのように大切なのか、だからどうするのか、ということを自分で考えて自分で出した答えの上に、D&SだとかSM、夫婦関係とか、SEXのことを乗せるのが大事なことだと思ってる。
こんな理屈っぽい話である必要はない。
もっと感覚的で言葉にできなくてもいい。
もっと性的なことだけの理由でもいい。
愛の上に乗った愛欲は美しいと思うし
そうではない愛欲はただの自己中だなと思う。
■関連記事